速水奏の映画メモ

アイドル・速水奏が古今東西の映画について語る企画『速水奏の映画メモ』

宇宙から来たツタンカーメン(1982)

 

水奏の映画メモ

イドル・速水奏。玉石混淆の中から、選りすぐった映画芸術が彼女の深淵さを湛えた秘めやかな笑みを支えている。

 贋を見抜く確かな目こそ、我々が彼女に習うべきものかもしれない。今夜の彼女は示唆的で、どこかミステリアスだ。「速水奏の映画メモ」に新しいページが刻まれる。

 

 (文責・鷺沢文香)

 

 

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 ねぇ、私の気力が充実してるの、わかるかしら。Z級クソ映画を紹介したい気分なの。

 

 私が今夜紹介するのは『宇宙から来たツタンカーメン』。1982年に何の因果か作られてしまった83分間の拷問、見る産業廃棄物よ。制作はアメリカ、一応、SFホラーというジャンルになるみたいだけど……これを見て80分間を浪費するのは身の毛もよだつ話よね。

 私が粗筋を紹介していくわね――その前に、注意をしておきましょうか。

 ネタバレ含む……というより、全編がネタバレなので、内容を知らないままにクソ映画を観たいという人は、ここでお引き取り願うわね。もうひとつ忠告しておくなら、そういう人は絶対に借りてきたパッケージの裏を見てはダメよ。制作陣に残ったわずかな良心からか、箱の裏に何より酷いネタバレが載っているわ。VHSだとそこまでだったのに、DVD版では全部載ってるわ。というかそもそもタイトルが最大のネタバレ(?)なのだけど……

 『全裸美女に迫る古代エジプトの魔神』、という副題で覚えている、という方もいるかもしれないわね。全裸美女は出ないわよ。古代エジプトの魔神もね。というかツタンカーメンも出ないわ。

 

宇宙からのツタンカーメン[DVD]

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 地雷が埋まっている場所を知っているのに、教えてあげないのって人倫に悖ると思うのよね。私には、この映画を紹介する責務があるとすら思うわ。

 もし貴方がこの映画を観たことがないなら、貴方は果報者よ。人生の貴重な時間を無駄にしなくてすんでいるのだから。

 でも、同じくらい貴方は不幸かもしれない。というのは、貴方が『タイム・イズ・プレシャス』という格言を、まだ身をもって理解したことがないからよ。

 でも、考えてみれば、そんなに神経質になることもないかもしれないわね。どうせネタバレされたところで話が分からないんだもの。私が言うんだから、本当よ。観てもわからなかったんだもの。

 

 考古学者ダグラス・マッカデン教授(ベン・マーフィ)は、遺跡発掘の調査で訪れたエジプトで、ツタンカーメン王のピラミッドから謎の棺と、そこに収められた謎の一体のミイラを発見するの。棺の中には未知のカビが生えていて、カビやミイラを研究するために教授はアメリカへと持ち帰ったのだけど、レントゲンを撮ろうとしたところ教室の研究員がうっかり10倍の強さでX線を照射してしまって、ミイラが生き返ってしまうのね。80年代の映画は科学的検証とかしなかったのかしらね。まぁ、このくらいは些事だわ。残念ながらね。

 また、研究員の中には手癖が悪い人がいて、この人が副葬品として棺に入っていた宝石をガメてしまうのよ。これに怒ったミイラが、宝石を取り戻すために街に繰り出して人々を襲っていくんだけど……この辺でカビについて研究しようとかいう当初の目的は登場人物どころか、おそらく制作陣にも忘れ去られたんじゃないかしら。アメリカン・ホラーなので結構ミイラも豪快に殺人を犯していくのよ。惜しむらくはホラー映画なのにそのシーンも大して映ってなければ、肝心のミイラの姿すら終盤までカメラにほとんど映らないところよね。ホラー映画なのに。ホラーといえば、ミイラに高層ビルから突き落とされ、全身打撲を負ったのにピンピンしてるヒロイン(ニナ・アクセルロッド)とかもホラーよね。マッカデン教授は彼女の全身レントゲンを撮るべきだったわ。

 

 1時間が経過するくらいまでは、普通の映画なのよ。残念だけど。疲労を感じたくなければ、ここでテープを止めるべきね。

 というのも残り10分強、というところから畳みかけてくる展開がこの映画のカルト的人気の元凶なの。

  盗まれたジュエルをすべて回収したミイラが胸からビームを出すと、実はミイラは宇宙人だったのよ。……何を言っているかわからないって顔してるわね。大丈夫、貴方がおかしいわけじゃないから。実のところ、私も何言っているかわからないの。

 

 今からとても大事なことをいうわ。タイトルは『宇宙から来たツタンカーメン』なのに、このミイラだった宇宙人は『宇宙から来て、ツタンカーメンを殺しただけ』なのよね。隣で観ていた文香が思わず『じゃあ、お前はなんなんだ!』と叫んで立ち上がったのが面白かったわ。え?作中で面白かったところ?ないわね。

 宇宙から来たツタンカーメンを殺したヤツは追い詰められていくのだけど、警官隊の発砲からヤツを庇うのはマッカデン教授。彼が友好的にヤツに手を差し伸べると、どこかに連れ去られてしまう。学生がヤツの残していった宝石に触って、手が腐るところで終わり。……ちょっと、あんなに回収に躍起になってたのに何置いて行ってるのよ。

 

 

 監督はトム・ケネディ。映画監督としての彼がした仕事はこの一作きりよ。その点ではレニー・ハーリンエド・ウッドよりは罪が軽いといえるわね。ちなみに、Google検索で「クソ映画 監督」と打ち込んでI'm feeling luckyを押すとエド・ウッドWikipediaにリダイレクトされるの。この世で最もいらない類のトリビアでしょう?ふふっ。

 でもトム・ケネディという人、実はハリウッドでも有数の映像会社の副社長まで上り詰めた人で……映画こそこれきりだけど、予告編集の腕は確かだったみたい。実際、その才能は注意深く、根気よく、我慢強く観ればこの映画でも発揮されているように思うわ。カメラワークとか巧みなのよね。構図もインパクトがあるものが撮られているし。映像技術のプロモーション・ビデオだと思えば見れなくも……80分も見れないわね。何でもないわ。ヒロインの吹き替えに声を当てているのは声優のよこざわけい子氏。『天空の城ラピュタ』のシータや『ドラえもん』のドラミが有名な役どころかしら。ほぼ唯一に近い見どころよ。

 

 ひとつ予言をしておくわ。観終わった貴方は『あれはすごかった』っていうから。いいか悪いかは置いといて、ね。

 語りたくなるクソ映画は、いいクソ映画……といいたいところだけどマジでクソよ。Z級映画の銀幕に感化された私と、あなた。果たしてどんなシネマの幕があがるのかしら。

 

(続く)

ギフテッド(2017)

 

 

水奏の映画メモ

イドル・速水奏。彼女の妖艶な魅力と知性は、古今東西映画芸術によって涵養されたといっても過言ではない。

 他ともに認める映画通が本能の赴くままに持ち寄る映画を批評・解説する本誌屈指の人気コーナー、『速水奏の映画メモ』が装い新しく帰ってきた。

 

 (文責・鷺沢文香)

 

 

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 才能って言葉が嫌いだわ。こと、努力と二項対立される才能って本当に嫌い。努力をするのにだって才能がいるはずだし、「天才だと?37年の間、毎日14時間練習を続けてきた私をつかまえて、天才呼ばわりする気か!」と彼を無責任にも天才だと称える声に怒りを表明した唯一無二のヴァイオリニスト・サラサーテの言葉にはいろんな含蓄を見出してしまうもの。

 

 今日、私が紹介するのは2017年公開のアメリカン・ヒューマンドラマ『ギフテッド』。1時間41分という手ごろか、少し短めくらいの、とても『意義ある』映画よ。家族の愛を描いた泣けるドラマ、かどうかは貴方の目が判断すればいい。

 

youtu.be

 

 まずは、粗筋を。


 7歳の少女・メアリー(マッケナ・グレイス)に叔父のフランクが言い聞かせる場面から始まる。メアリーの小学校初登校の日、彼が滾々と説き続け送り出したのは、『とにかく、子供らしくしろ』という一言だった。


 しかし、登校初日にしてメアリーは算術の初歩、『1+1』から教える授業に痺れを切らし、教師に反抗。担任のボニー教諭(ジェニー・スレイト)が彼女を黙らせようと出した、大人でも電卓を使わないとパッとは答えが出ないような2桁どうしの掛け算を暗算でやってみせる。そのまま校長にも食って掛かり、迎えに来たフランクの車で早引けする。そのままフランクは自分の仕事場――波止場へと向かう。


 マリーナに属さない、フリーのボート修理工であるフランクが男手ひとつで育てた姪のメアリーは、数学の天才児だった。彼女はもともと大学で哲学を教えていたフランクのもと、『世界一賢いネコ』片目のフレッドと不思議だが暖かい家族生活を営む。このちぐはぐな家族を気に掛ける隣人ロバータ(オクタヴィア・スペンサー)も交え、海辺の日差しと和やかな調子の生活が続けばよいと思っていたわ。

 

 一方、トラハテンベルク・メソッドという、ある数学者がナチス収容中に編み出したといわれている特殊な暗算法を使いこなす生意気な7歳児に興味をそそられたボニーはインターネットにメアリーやフランクの名前を打ち込んでみた。そこで彼女が目にしたのは、『著名な数学者ダイアン・アドラーが自殺。残された遺族は弟のフランク』という記事だった。

 

 ミレニアム問題のひとつ、ナビエ・ストークス方程式。数々の天才が人生を棒に振ったこの悪魔のような難問を、生きていれば間違いなく解いただろう――そうダイアン・アドラーのことをメアリーに語って聞かせたのは、自身も元数学者のイブリン・アドラー(リンジー・ダンカン)、ダイアンの母にしてメアリーの祖母よ。周囲とノイズを生じさせたり、校長にギフテッド教育で名高い学校へ奨学金つきでの転学を提案されたりしながらも、少しずつ小学校に馴染んでいくメアリーのもとへ現れた彼女は、メアリーの才能を高く評価し、ダイアンの遺した業績を超える数学者にメアリーを育て上げるべく、彼女をフランクから引き取りにきたのだった。メアリーはまだ見たことのない数学の理論や、その学習に惹かれる一方、フランクとフレッドと引き離されることを何より懼れるのだが、イブリンは弁護士を雇い法廷でメアリーの親権をフランクと争うことを決断する。ダイアン・アドラーをその手で育て、その手から失った傷を持つ彼女は、『今度こそ』という悲願をメアリーの才能に見出していた。彼女の才能を適切な教育によって伸ばすことが自分の責務だ、というイブリンと、姉ダイアンが憧れた、ギフテッドとして自分を腫れもの扱いしないコミュニティでの平穏というものに理解を示すフランクは、愛ゆえにメアリーを巡って戦うことを余儀なくされる。そしてフランクのもとにダイアンが託したのはメアリーだけではなく……。

 

 

 キャストの話をすると、自分も大学の哲学科准教授という前職の履歴を持ちながらボート修理工として生計を立てる、どこか陰があり知性を感じさせるが野性的なマッチョという難しい役柄を好演したのは、『アベンジャーズ』や『キャプテン・アメリカ』でその名を上げたクリス・エヴァンスよ。ボニー教諭はメアリーが天才であっただけでこれほど入れ込んだかしら、というのもそれほどにクリス・エヴァンス演じるフランク・アドラーが魅力的だったの。そのフランクと酒を飲み、共に朝を迎えるようになるボニー教諭にはコメディエンヌとして不動の地位を確立した後、最近では声優として『ミニオンズ』や『ズートピア』といった話題作に引っ張りだこのジェニー・スレイト。クリス・エヴァンスとジェニー・スレイトはこの映画での共演を期に交際をはじめ、スピード破局が報じられたもののまた復縁した、というのはちょっとしたゴシップよね。

 

 隣家に住みアドラー一家の事情を知り彼らに手を差し伸べる、ときにおせっかいまで焼いてしまうロバータにはオスカー女優のオクタヴィア・スペンサー、『ギフテッドを育てることは社会への貢献であり、天才児を授かった者の使命だ』と言い切る祖母にその演劇に果たした業績を評価されコマンダーに叙勲を受けた舞台女優リンジー・ダンカンを迎えた本映画の中でも、貴方はきっと子役マッケナ・グレイスこそ紛う方なき『ギフテッド』なのだと気が付くでしょう。数学の天才児を演じるこの演劇の天才児こそ、神様の贈り物を授かった子でなければなんだというのかしら。好奇心と知識欲をダイナモに縦横無尽に駆け巡り、周りのことはお構いなしのように見えて実は誰よりも他人の顔色の機微に目敏い。感受性豊かで正しくないことは許しておけない反面、誰よりも傷つきやすいフラジャイルな心を持っている。本質的に人が嫌いで動物が好きで、でも自分を理解してくれるかけがえのない存在への愛は無限に発散する。論理で動いているように見えて、いちど高ぶってしまえば感情の氾濫を止めるすべを知らない、この愛すべきギフテッドこそ、我々が思い描く天才のステレオタイプの具現に他ならない。

 

 

 メガホンを執るのは、2010年の『(500)日のサマー』でゴールデングローブ賞2部門、続く12年と14年の『アメイジングスパイダーマン』と『アメイジングスパイダーマン2』で評価を確かなものにしたマーク・ウェブ監督。彼はもともと音楽のアーティストPVを撮ることからそのキャリアを始めていることもあって、短いカットにエモーショナルなメッセージを込めるのが得意よね。本作でも、斜陽の逆光になっているフランクがメアリーを肩車しながら彼女に約束するところなんて、悪く言えば陳腐だけれど、効果的に差し込まれた情感的な描写だったわ。

 

 彼は、ヒューマンドラマこそが自分の原点、と言って憚らないところでも有名だけれども、そんなマーク・ウェブが「映画を愛する純粋な気持ちに立ち返りたい」と願い、いわゆる大作と言われる映画から離れたいと思っていた時分に、出会って惚れ込んだという脚本が本作なの。その脚本はこれまた長いキャリアと確固たる名声を持っているトム・フリンが手掛けたわ。トムの飼い猫こそ、メアリーの愛猫・フレッドのモデルというのは裏話よ。

 

 


  私の同僚で友人に、まさしく神様からの授かりものを持っている人がいるのだけれど……って、誰のことを言っているのかは瞭然よね。私は映画はひとりで観るのが好きだし、誰かと見に行くときもだいたい決まったメンツなのだけどね。SNSでこの映画の広告が流れてきたのをみたときに、『彼女(ギフテッド)を誘ってみよう』って思ったの。彼女が100分もの間、黙ってシートに座っていてくれるのか、とか、そもそもこんな題材を見たがるのか、とか、一抹の不安はあったのだけど、映画に行かない?観たいのがあるのよ、って誘ったら意外にも快諾してくれてね。

 

「なになに?何見るの?カンフー?」

 

 私が差し出したスマートフォンの画面を見て、一瞬目を瞠った彼女はすぐ……そうね、新しい玩具をあげたときの仔ネコみたいな表情になったのよ。

 

 *

 

「アレはさ、やっぱり、持たざる者が持つ者を想像したものでしかないよ」

 

 映画を観終わった後の私たちは、カフェ・レストランで遅い夕食を摂っていた。席について自分のドリンクにガムシロップを大量に流し込みながら呟いた彼女の一言が私は忘れられないの。


 私は何も言わず、口を歪めて嗤う彼女に目で先を促した。

 

「ギフトなんて、欲しくなかったんだ。そんなものより、ずっと傍にいてくれると思わせてくれて、そして傍にいてくれないと分かったときに、世界が取り上げられちゃうくらいに信頼できる人が欲しかった。でも、それって、ギフトを貰っておいて欲張りだ、って糾弾されるべきなのかもしれないけれど。志希ちゃん、『べき』とか『should』とか、『had better』とかって言い回し好きじゃないんだよね~。空気を読むっていうけど、空気って倫理観とか、ジョーシキとか、結局はあるせっまいコミュニティの同調圧力が作り出すものでしょ。部屋に入るときは、コートを脱いで腕にかけるべき。にゃふふ、アタシがテロリストとかヒットマンなら、腕にかけたコートの下に拳銃を構えて礼儀正しく入室するよ」

 

 じゃ、貴女が語ればいいじゃない。研究者としても、アイドルとしても名声と評価がある貴女の声はよく通る。そうやって誰かが語ることで、世界中に点在する贈り物の受け取り主たちのクオリティ・オブ・ライフが向上するかもしれないでしょう。

 

 少し意地が悪いのは自分でもわかっていたけれど、真っ当な質問だったと思うし、今でも思っているわ。そして、真っ当だったからこそ、彼女はとびっきりの悪戯を考え付いたように笑ったのでしょうね。ポテトフライには馬鹿すか自前のタバスコをかけて、クリームのたっぷり載ったフラペチーノにガムシロップをどぼどぼ入れて。鼻の頭にクリームを付けながら神の寵児は私に言った。

 

自閉症スペクトラムって概念があるでしょ?でも、それ以前は贈り物の入った箱は、パンドラの匣として扱われていた時代もある。奏ちゃんは、発達障害って言い方とか、聞いたことない?」

 

 私は首肯した。

 

「だったら、アタシたちは――少なくとも、アタシはアタシについて語らない。これが障害なら、ギフトを持つ者がギフテッドに言及することは、当事者研究めいた文脈でしか歓迎されない。それに――いや、なんでもないや」

 

 映画はお気に召さなかったようだけれど、一緒に出掛けてくれた彼女は楽しげで、少し不思議に思いながらも私はどこか安堵した夜だったわ。

 

 *

 

 自分の思考や精神活動を、言葉に書き起こそうとするのって大切ね。だから、このコラムを書くお仕事はさしずめ私への『ギフト』だったのかも、なんて。ふふっ。内容はギフテッドのお眼鏡に叶うものではなかったのかもしれない。けれど、彼女がどうして嬉しそうだったのか、今なら分かる気がするの。

 

 こんな風に、映画を観てからいろんなことを考えちゃって……。『当事者』の評価はあまり高くなかったにしろ、『私たち』がギフトという特別な概念についてアレコレ思いを馳せてしまう、そのトリガーになったというだけで、この映画は既に成功を手中に収めたといえるでしょうね。誰かをインスパイアできる創作物ほど、価値のある物はないのだから。

 

 つまるところ、ギフテッドだって、私や貴女と同じ人間なのよね。牙も爪も、翼はおろか尻尾のひとつ、貰えなかった脾弱で、寂しがりやで、血が流れている。いくらある分野における頭脳活動がずば抜けているといっても、人って結構不便にできている生き物じゃない。理論や数式に意義を見出すところと、そこに還元しきれないものに思いを懐いてしまうのが特長の私たちって、言葉だけで納得できるほど小利口に出来てやしないのよね。『誰かが自分のことを理解しようとしてくれる』って行いが、どれだけプリミティヴな人間関係の種で、どれだけ尊いものなのか。彼女は、見ても見なくても、ギフテッド以外がギフトについて語るものはどれだけ本物に近づけても紛い物に過ぎないことをわかっていて。そしてギフテッドは興味の対象が多すぎる故に、往々にして自分について語る暇すら持たないことを知っていて。それでも私が他ならぬ『彼女』とこの映画を観たいと思った、そのことに何かしらの意味を見出してくれたのかしら、なんてね。

 

 私たちの国では、彼女たち天稟を持つ者の扱い方が未熟という謗りはあるわよね。

 

 歴史的に見ても、神や妖怪やら霊やらといったものが跳梁跋扈してきたこの島国では、一般的とされる閾値を超えた能力を示す生物は、方法はいくつかあるにしろ『隔離』を主たる対処法としてきた。ひとつは『祀り』であり、またひとつは『排斥』であり……畏敬や畏怖という言葉に顔を覗く『畏れ』という概念が雄弁に語っているように、人の手に負えぬものを恐怖心からコミュニティより遠ざけてきた。閉鎖的だという指摘もあるでしょうけれど、雨期を持つ島国は疫病が流行しやすかったりもしたでしょうし、そこに怪異を見出して遠ざける措置が必ずしも悪かったとは、誰にも言えないわ。善悪の如何は別として、そう培われてきたエスニシティは一朝一夕で変わるものではないでしょう。

 

 じゃ、ギフテッドは『コミュニティのみんなで育て、大切にするべき』という考え方があって、ギフテッド教育をやっているところは何が違うのかっていうと、実は案外に、そんな簡単なことなのかもしれないじゃない?貴方にも、あるでしょう?同じ職場の、教室の、あるいは学校の、行きつけのカフェの、それとも図書館でよく会う、気になるあのヒト。名前が知りたい、好きなものが知りたい。あのヒトにまつわることなら、何でも。少しでもあのヒトを理解できるように……彼女たちに向けられるべき、あるいは彼女たちが本当に向けられたい『理解』って、マウスの性質や生態なんかへ向けられる科学的な『理解』じゃないんだってところを、そのギフトへの称賛や羨望、嫉妬や反感で塗り潰してしまわないように、手のひらの中で大切にしたいわ。それが、愛を持って接する……ってことなのかしら。

 

 このパンフレット、読む?……愛の正解が、書いてあるかもしれないわよ。

 

(続く)