速水奏の映画メモ

アイドル・速水奏が古今東西の映画について語る企画『速水奏の映画メモ』

アイドル映画座談会「『イージー・ライダー』とアメリカン・ニューシネマ~ロックンロールはどこへ行く~」

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速水奏 今日は、ふだんと趣向を変えて、ある映画について集まった何人かのアイドルと話をしていく、という企画をお送りするわ。今日集まったのは、私を除いて3人。紹介するわ。まず、豊富な読書経験で知られる、確かな知識の源泉、鷺沢文香さん。

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鷺沢文香 ……本日はお招きありがとうございます。

 

速水 いえ、来てくれてこちらこそありがとう。そうそう、言い忘れていたけれど、この座談会はいつもの「速水奏の映画メモ」の特別企画という位置づけで、私と、いつも紹介文を寄稿してくれている文香がホストのような形らしいのよ。続いてはこの方々、今日のゲスト枠にして、我が事務所のロックンロール代表、『ロック・ザ・ビート』のお二人よ。

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木村夏樹 呼んでくれてありがとう。木村夏樹だ、よろしく。……実は、なんだかアタシたちがこういうのって、場違いなんじゃないかって思ってたんだ。ま、今日のテーマの映画を観てそれも吹っ飛んだ……つもりだったんだけど、やっぱりこうやって座って話をするって、慣れないな。

 

多田李衣菜 ロックは魂の叫びだじぇ!わぷっ……

 

速水 噛んだわね。

 

鷺沢 ……噛みましたね。

 

木村 噛んだな。

 

多田 えーと、気を取り直して!ロックは魂の叫びだぜ!ロックなアイドル目指して頑張ります、多田李衣菜でーす。今日はよろしくね!

 

速水 えぇ、こちらこそ。さて、今日の映画談議のテーマは『イージー・ライダー』(1969)よ。若者がバイクを走らせながら、カトリックの大家族やヒッピー集落、農夫などと関わっていく姿から、自由とは何か、ということを考えさせる古典映画屈指の名作よね。

 

多田 私のプレイヤーに入ってて聴いたことある歌が印象的だったなあ。

 

木村 ステッペンウルフの"Born To Be Wild"とかな。超有名な、もうロックンローラーにとっての讃美歌みたいな曲も使われてて、知ってはいたんだが映画の中で改めて聴いてみると、やっぱりとんでもないんだわ。ハーレーがまた、最高にアツいのなんのって!

 

速水 夏樹ちゃんは誕生日が『バイクの日』だって?

 

木村 おぉ、そうなんだよ。この映画に使われたハーレーは、オークションで135万ドルを叩き出したんだってね。

 

速水 それだけ、根強い人気があるのよね。およそ簡単なメッセージ・ムービーではないと思うのだけれど。

 

木村 アタシは、ときどき思うんだ。ロックって単にカッコいいだけのものじゃないんだって。これはアタシ自身に言い聞かせてるようなところもあるんだけどな。

 

鷺沢 盲目的に英雄化されるべきものではない、と?

 

木村 なんていうのかな、そういうところもある、って思うんだよ。ゴスペルのコール・アンド・レスポンスっていうのは、聖書が買えなかったり、そもそも文字が読めないような人たちが、それでも神の教えを唱えたくて、あぁいう形になったわけだろう。そういう風に、切っても切り離せないダークでビターなところまで含めて、ロックンロールっていうのは成り立ってるんだと思うんだ。だから、ジャンルじゃなくて生き方、生き様なんだよ。ギターが弾ければ、歌が上手ければ、モテる、カッコいい。そういうんじゃなくて、さ。

 

多田 ロックは魂の叫び……かぁ。今でこそ憧れるものでも、もともとはそうでもしないと生きていけなかった、ってところもあるのかな。

 

木村 ……『オルタモントの悲劇』って知ってるか?

 

速水 ううん。

 

鷺沢 ……私も、初めて聞きました。

 

木村 ヘッズ・エンジェルズっていう、今でもあるマフィアみたいなグループがあってさ。バイク乗りのギャング、っていうか。これが、ローリングストーンズのコンサートでまぁ、人殺しをやったのが、1969年でさ。

 

速水 ちょうど、『イージー・ライダー』が公開された年ね?

 

木村 そうなんだよ。

 

速水 『イージー・ライダー』や『俺たちに明日はない』といった、アメリカン・ニューシネマはアメリカのベトナム戦争に示した態度に対して、若者たちの反体制運動と関係が深いというところね。1960年代といえば、英語の教科書にも載っている、キング牧師公民権運動を展開していた時勢だわ。63年にケネディ大統領が、65年に運動指揮者のマルコムXが、68年にはキング牧師が暗殺された……。

 

鷺沢 この映画で主人公たちが密売していた覚醒剤ですが、覚醒剤は戦時下では兵士の士気高揚に用いられたといいますし……。ベトナム戦争の軍事介入をきっかけに、自分たちの国に絶対的ともいえる自信を持っていたアメリカ国民が、自国に懐疑的になったというのは歴史的事実となっています。安定を望めない人々は自暴自棄になり、エスカレートする暴力や、刹那的に快楽に生きていく無軌道な生き方、そしてそれを糾弾する体制との衝突――反体制運動とは、そのような、まさしく人々の『生き様』の歴史だった、ということもできるでしょうね……

 

速水 覚醒剤や娼婦に逃げていったワイアットとビリー、彼らは当時の若者がもがいていた姿の象徴、というところなのかしら。

 

多田 そうなのかな?

 

速水 李衣菜?

 

木村 おお、だりー居たのか。寝てるのかと思ったよ。

 

多田 ええと、奏の方が私なんかより全然映画も観てる訳だし、文香ちゃんはすごく本を読んでる人だから、二人の言うことが間違ってると思わないんだけど……私は、ちょっと違うのかもなあ、って。ビリーは帽子を被ってた方だよね?

 

速水 そうね。

 

多田 ビリーは確かに、ヒッピーの家でも女の子といちゃいちゃしてたし、種を蒔く人たちのことを馬鹿にして……っていうか、呆れた感じで喋ったりしてた。そもそも、ヒッチハイクのヒッピーを拾ったワイアットのことも怒ってたし。だから、ビリーが当時のアタマにキてる若者のヤケっぱちな姿なのかな、っていうのは私もそう思う。でも、ワイアットはさ、実は違うんじゃないかなって。

 

速水 実は違う?

 

多田 うんと、ワイアットはさ、カトリックの家でごはんを食べた時も、『大地に根を張るのはいいこと』だって言ってたし。私も観てる時は、これは皮肉なのかな、って思ったんだけど、実は本当にそう思ってたのかなって気もしてきたんだ。種を蒔いてる人たちのところでも、ワイアットは本当に雨が降って砂地に作物が出来たらいいって思ってたのかもしれないし、覚醒剤の密売でお金を作ったことも後悔してたんじゃないかなって。

 

木村 自責の念、ってやつか。

 

多田 うん、なんていうんだろ、ちゃんと安定した生活をすることが理想だ、っていうのをわかってて、迷ってる人だったんじゃないかなって。ビリーがお金を得たことを素直に喜んでたのに、一緒になってはしゃげなかったところとか。悪いことをして『イージー』に一攫千金、っていう生き方が本当は間違ってるんじゃないか、ってひとりで悩んでたんじゃないのかな。

 

鷺沢 ……ビリーが若者の怒り、そしてワイアットが若者の迷い、を体現しているということですか。

 

多田 そんな感じ。やっぱりすっと言葉が出てくるのって羨ましいなぁ。最後に主人公たちを猟銃で殺しちゃった人たちも、そういう実は違うところに気が付けずに、堕落した若者=ワル、みたいな見方があったとしたら、寂しいなって。

 

木村 そういう個人個人の違いに目を向ける余裕が、体制側にもなかったってことか……。何もかもをロックでひとくくりにするようなものだな……。

 

速水 蟠りがすっと消えていく感じだわ。

 

鷺沢 そうすると、弁護士という堅い職につきながら荒れた生活を送っていた弁護士のジョージは、ワイアットとビリーよりも複雑ですね……親の七光りと刹那主義的な絶望との板挟みにありながら、自分のような者が人助けに従事するということへの自家撞着が、破滅的な彼の生き方の根幹だったのかもしれません。

 

木村 自分だけのレベルでどうこうできるような、根が浅い問題じゃないってか。そうすると、それを直視しないようにしながら堅実に足元を固めるか、泥濘の中でダンスをするかしかなくなるわけだよ。自由と安定がトレードオフだ。

 

鷺沢 自由にも、フリーダムとリバティの二種類があって、ここから私たちは出発するべきでしょう。

 

速水 チャップリンの名言ね。『ファイト・フォー・リバティ』、フリーダム、じゃないのよね。

 

鷺沢 ええ。リバティとは人間の自由、フリーダムとは動物の自由です。峻別する線を引き得るのは、社会的生物という観点による、と言うこともできるでしょう。

 

木村 制限がつくかつかないか。

 

鷺沢 まさしく。人権とは、契約に基づくものです。闘争状態を避けるために生み出された、貴方の財産を侵さないかわりに、私の財産も侵さないでほしい、というプリミティヴな契約です。Freedom、というのは野放図な自由、つまり闘争状態への回帰を図らずとも意味するのでは。

 

木村 ボーン・トゥ・ビー・ワイルドの『ワイルド』かぁ、なるほど。自分たちが信じていた国に裏切られ、与えられていた法律とかの自分たちを守ってたはずの秩序を問い直すときに出てきた考え方なんだな。ブレーキのないバイクは速さだけを求める当人にはよくても、いつ巻き込まれるかひやひやして周りは気が気じゃない、ってことかね。

 

速水 文香がいう『財産』て、それが『自由』そのものと互換よね。つまり、自由を謳歌しようと思うときに、誰かの自由を侵害してはいけない、という。責任の伴わないものはフリーダムであってもリバティではなくて、だからジョージは殺されてしまった――そういう解釈も、あると思うわ。

 

木村 自責の念、の責は責任の責、か。

 

鷺沢 『アメリカ人は自由を証明する為なら、殺人だって平気でやる』という弁護士のセリフの意味が変わってきますね。反体制運動、という色眼鏡でみればこれはベトナム戦争への手厳しい揶揄なのでしょうが、たとえ殺人という悲劇を犯してでも責任の伴う社会的自由のために戦う野蛮さと裏表の気高さ、というのは重いメッセージです。まるで影絵のように、「証明する為に人を殺さなければならないのなら、自由なんて代物を求めてなるものか」、という強い意思すら浮かんできますね。

 

速水 「自由の国には自由なんてない」という短絡的な映画じゃないことだけが確かになって、消化できない色んな感情が深まった感じだわ。

 

多田 ジョージが死んだとき、ビリーとワイアットもまた殺されちゃったんだと思う。

 

鷺沢 もっとも、ワイアットという名前が西部劇の立役者ワイアット・アープを想起させる効果を持つように、馬をバイクに乗り換えた西部劇を描きたい、それだけの動機で作られた作品なのかもしれませんが。たとえそうであっても、深読みではない、と思います。間違いなく世相が反映されていて、そこに『根を張っている』のが闘争状態という自由を規制しての、社会的自由であるという原理は動かせませんから……。カルチャーではなく、カウンターカルチャーなのだ、とお忘れないよう。

 

速水 これは、半世紀たって尚、『ニューシネマ』であり続けるわけだわ。

 

木村 古い映画に出て来たのに、ハーレーを改造したあのバイクがカッコいいんだよ。古いどころか、あれよりカッコいいバイクが出てこないんだわ。だからワイアットの燃やされたハーレーよりカッコいいバイクが出てきたとき、初めて『イージー・ライダー』よりロックでエモーショナルな映画が出てくるようになるんじゃないかな。

 

多田 自由を求めて戦った若者文化がアメリカである、っていうのも真実じゃなくて、ひとつの見方でしかないんだね。その若者文化を受け入れられなくてモーテルに泊めることを断ったのも、銃を撃ったのも、やっぱりアメリカなんだもの。

 

速水 「自由を標榜する生き方への嫉妬」だとか、「自由を履き違えた生き方への制裁」とか、「保守的な土着文化と革新的な若者文化の対立」だとか、あるいは「自由に殉じた若者の姿」だとか。そう断言できるものって実はひとつも正しくなくて、そういう諸々の感情があたかもスペクトルのようになったものこそ、『イージー・ライダー』なのかしらね。だから、ショッキングなラストシーンは、何の象徴でもなくて、強いて言うなら「ありのままの現実」なのよ。

 

多田 ちょっと気取った言い方になっちゃうけど、ずうっと伸びていく66号線のシーンと、ヒッピーの村で種蒔く人たちの裸足とワイアットのブーツの足元が大写しになるシーン、あれがすごく印象的だったなって、思うな。地に足を付けて生きて行こうとすると、足は汚れるし、ちょっとずつしか進めないものだからもどかしくて絶望もする。遠くを見つめると汚れた裸足と対照的に澄んだ空に向かって道路がずっと伸びてる気がしてきて、ちょっと救われる、みたいな。

 

木村 だりー、たまにはいいこと言うじゃんか!

 

多田 なつきちも私のこと、ロックなアイドル多田李衣菜って呼んでもいいよ!

 

 

鷺沢 Easy riderという言葉には、「気ままなバイク乗り」という意味の他、「簡単に口説けそうな女性」や「働かず楽して生きようとする人」というスラングとしての意味もあるようで。

 

速水 これ以上ない、そしてこれ以外ない、っていうタイトルよね。自分のルート66がどこへ続いていくのか、たまには立ち止まって考えてみることも大切だと思う。街を行き交う画一的な人たち……見下ろす私も、誰かに求められた、偶像の私。そもそも、本物なんて存在するのかしら?解釈には手が余るものだけが、本物なのかもしれないわ。また会いましょう、速水奏と。

 

鷺沢 鷺沢文香と。

 

木村 きむr……

 

多田 『ロック・ザ・ビート』、木村夏樹多田李衣菜でした!今日はありがとー!

 

木村 えっ、おい……

 

(続く)