速水奏の映画メモ

アイドル・速水奏が古今東西の映画について語る企画『速水奏の映画メモ』

グレイテスト・ショーマン(2017)

水奏の映画メモ

o one ever made a difference by being like everyone else.「みんな違って みんないい」と鋭い洞察を遺した詩人がいるが、差や異といったものに、とかく人は惑わされがちである。個を個たらしめるものとは、突き詰めれば違いをひとつひとつ数え上げて積み上げていく行いそのものかもしれない。些細なものの堆積が、いつしか掛け替えのない、自分だけの世界を形作り、彩ってゆく。

 井吉野の樹は国中どこへ行っても接ぎ木で増えたクローンとは手垢のついた話だが、桜に先駆け春を知らせる梅の花は顔ぶれがどれも違う。競うように梅咲き出す春は、大作映画が競り合うように相次いで公開される時期でもある。今夜、速水奏が語るはその中のひとつだ。

 

 (文責・鷺沢文香)

 

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 フェデリコ・フェリーニをモデルにした天才監督のスランプを描いたミュージカル映画『NINE』の公開から早10年弱。ハリウッドとブロードウェイは、思春期を迎えた異性の幼馴染を気に掛けるように、いつもお互いを意識してきた。それは単に、映画と音楽が切っても切り離せない関係にある、というのとは少し違う話だと思うの。ショー、という点では競合相手だということもあるのかしらね。


 本作『グレイテスト・ショーマン』が特殊なのはまずここで、この映画は構造としてメタを孕んでいるのよね。ミュージカル映画という『ショー』の中で、サーカスという『ショー』を描く。そして、その描かれたサーカスという『ショー』を通してひとりの実在の男の生き様という『ショー』を観客に魅せる――この視点が特殊な構造が、この映画を唯一無二のものに仕立て上げる重要な舞台装置として働いているの。サーカスを見に行って、目の前の人間離れした軽業に感情移入はしないでしょう?でも、確かに感動に心が揺さぶられもする。それは、ステージと距離の近い客席で体験を共有することによるわけよね。この点、従来の映画はその表現形式を用いるメリットとして『演劇ではできないような舞台を見せることができる』というのがある一方で、観衆に実体験として共有してもらうことは難しいというデメリットがあるから、このいわば映画を作るときの先天的なネックがあったの。10年かけて制作された長安のセットでの撮影や、雪山でオリエント急行のセットを脱線させるシーンをスクリーン越しに見せるのは見栄えがするけれど、あくまでスクリーン越しという安全な場所から見るからいまいち緊迫感には欠けるでしょう?これをミュージカル映画という手段で、『ショーの中でショーを見せる』という入れ子構造を用いることで飛び越えてみせた、『グレイテスト・ショーマン』はそういう見方もできるのではないかしら。

 

 古くは1920年代の『ブロードウェイ・メロディ』に遡ることができるミュージカル映画。ここ最近のものをなぞってみると、『オペラ座の怪人』('04)、『マンマ・ミーア!』('08)、『レ・ミゼラブル』('12)、『ラ・ラ・ランド』('16)とコンスタントにメガヒット作品が世に出てきているのよね。『レ・ミゼラブル』で主演ジャン・ヴァルジャンを演じたのは今作でP.T.バーナムを演じたヒュー・ジャックマン。彼の瞳って、キレイよね。見飽きないわ。他には、『美女と野獣』('17)も広義のミュージカルといえるかもしれないわ。このラインナップの中でも『レ・ミゼラブル』が後続に与えた影響というのは見過ごせないわね。それは同じミュージカルという形を踏襲しているもの、というのも勿論だけれど、挿入歌が流れるのではなく、登場人物が歌ったり演じたりするものとして見せ場に音楽が持ち込まれるものが明らかに増えてきた、というところかしら。この流れはもう少し続くと思うのだけれど、今回の『グレイテスト・ショーマン』が見せたブレイクスルーがそこにどう絡んでいくかが、私は気になるわ。無声映画が音声を得てまず模索されたジャンルがミュージカル映画というのは、それまでショーの主役をオペラや舞台演劇が担っていた歴史を鑑みれば当然なわけで。今、円熟した映像や音楽の技術をもって立ち返ろうとしている映画の羽化期に私たちはいるのかもしれないわね。

 

 ミュージカル映画というのは、その性格上、泣き所や笑い所といったシーンに雰囲気が合った音楽が流れ俳優が歌いだすわけで、見せ場を提示してくれる、っていうのが見ていて楽なのよね。これが広い年代層への大衆受けに繋がったのはわかるところだわ。『ローマの休日』(1953)では映像に起こされていないけれど脚本上は存在しているベッドシーンを、卓越したセリフ回しだけで表現する箇所がある、というのは有名な話だけれど、書かれているところを『見せない』でイマジネーションを湧きたてる、という文学とは真逆の技法を持っているのが美点でもある映画は、難しいものがあるのも事実だと思う。音楽は言葉で表現しきれない感情をダイレクトに聴衆に想起させるし、ダンスは場面にエモーショナルな情感を添えてくれる。舞踊と音楽という芸術表現の長所を最大限に生かそうとするミュージカル映画は、ストーリーの枠を超えて心を揺さぶるわ。

 

 

 どうしてミュージカル映画について滔々と述べてきたか、というと、『グレイテスト・ショーマン』がそうであるのも勿論のこと、それ以上に言いたいことがあるからなの。

 

グレイテスト・ショーマン』は、世間では拍手喝采で迎えられた作品のように受け止められているけれど、出だしは決して好調とは言い難かった。それは、目の肥えた劇評家たちの評価が真っ二つに割れたから。昨年、本屋大賞を受賞した恩田陸の『蜜蜂と遠雷』では、「意見が割れ、拒絶反応を示す者が出ることが優れていることの証左」
だっていうコンテクストが印象深いのだけれど、本作はそれをリアルで体現したかのような賛否両論の船出だったの。

 

 私もそれは得心が行くわ。『グレイテスト・ショーマン』は、映画としての出来は高くない。決して高いとは言えないどころか、寧ろ不出来だとすら言えるでしょうね。

 レベッカ・ファーガソンは物別れの後、結局最後まで出てこないし。愛と友情、誇りが持てる仕事――一流の劇作家がニューヨーク中の上流階級を敵に回す決断はそんなに安直なものだったのかしら。身体的なユニークネスがハンディではなく個性だというバーナムのスタンスはとても滋味深いわ。サーカス小屋が焼け落ち落胆するバーナムを勇気づけた劇評家の、「人種、性別、体型、といったバリエーションをものともせず、あらゆる人々が舞台に上がったステージは『人類の祝祭』」という言葉も耳当たりがいい。本当かしら?悲しいけれど、これだけいろんな学問的発展を礎に、マイノリティの人権が叫ばれる今日ですら澱のように社会に沈殿して、ときどき攪拌されては浮遊するネガティヴな論調があるわけで。作中で描かれたのは、鉄道がやっと引かれ、サーカス団が自前のテントで公演する走りが初めて登場した時代。『P.T.バーナムのサーカス』は、陰に陽に蔓延る差別感情に苛まれた人々の人権を保証したわけではないじゃない。彼らを見世物とした結果、感動を贖っただけのことで、それ以上でも以下でもない。そこを迂闊に掘り下げなかったのは賢明だと思うけれど、それが脚本の限界だったと語っているのも同義だと思うの。「でも、楽しいでしょう?」って。だからこそ、なじみの劇評家がいう『人類の祝祭』という表現は、アリストテレスがいうところの『カタルシス』という語がしっくり来るわ。


 掘り下げが甘い、ということは、ひとりひとりの抱えるバックボーンが見えてこないから感情移入を難しくしているということも意味している。言葉にしきれないものを音楽と踊りで拾うことができる、ミュージカルに甘えたところがこの映画には随所にあると思う。


 そして、こういった短所があって、映画としての評価を迷わせるこの映画こそ、P.T.バーナムが目指した『ショー』の体現なのかもしれないと思わせられてしまうのが悔しいのよね。

 

――The nobelest art is that of making others happy.

 

 最後にスクリーンに出てきた、P.T.バーナムの金言よ。「この世で最もノーブルな芸術とは、他人を幸せにすること」とでもなるのかしら。


 芸術作品として観たとき、『グレイテスト・ショーマン』は紛う方なく超一流で、ノーブル。ミュージカル映画というのは、既存の映画芸術の尺度で酌量するには手に余るんじゃないかしら、と、そんな思いすら涙腺から湧いてくるの。

 

 

 現実があまりにダークでビターだから、私は悪魔のようにブラックなコーヒーに砂糖をうんと入れて飲む。


 それと同じように、この世があまりに悲しみで満ち溢れているからこそ、このあまりに出来過ぎで、感情移入すら碌々させてくれない愛と友情のストーリーが、観終わった私たちの足取りを少しだけ軽くし、顔を少しだけ上向かせてくれるのでしょうね。


 きっかけは、きっと些細なもの。 それがいつの間にか大きくふくらんでいって、 自分の世界を変えてしまう。愛される資格、そのきっかけを、この前人未踏の挑戦を果たした、この世で最もノーブルな芸術のひとつに探してみてはいかがかしら。

 

(続く)