速水奏の映画メモ

アイドル・速水奏が古今東西の映画について語る企画『速水奏の映画メモ』

祈りの幕が下りる時(2018)

 

水奏の映画メモ

イドル・速水奏。玉石混淆の中から、選りすぐった映画芸術が彼女の深淵さを湛えた秘めやかな笑みを支えている。

 贋を見抜く確かな目こそ、我々が彼女に習うべきものかもしれない。今夜の彼女は示唆的で、どこかミステリアスだ。「速水奏の映画メモ」に新しいページが刻まれる。

 

 (文責・鷺沢文香)

 

 

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 原作となる小説があって、それを脚本に起こし映画化した作品というのは枚挙に遑がないわ。

 志希からこんな話を聴いたことがあるの。大元の滝から小さな滝がいくつもいくつも別れながら、水面を目指していくイメージ。生化学では、カスケード反応という重要な考え方がある、っていう話なんだけどね。人体だとか、生物の体の中で起こっている化学反応って、水素と酸素から水ができるように簡単なものばかりじゃないんですって。基本的な反応をいくつもいくつも積み重ねて――それこそ小さな滝が分かれていくようにいくつもいくつも――やっとひとつの目的を達成するシステムがいくつもシンクロしている、そういう考えをカスケードっていうらしいのだけど。

 

 似ているかも、って思ったのよ。原作小説のある映画、それを楽しむ映画鑑賞。

 イマジネーションが一度何かの形をとり、そこからまたイマジネーションが掻き立てられて誰かが別の形に仕立て、それを私たちは映画館の座席でスクリーンから投射された光信号として受け取り、イマジネーションを刺戟された訳よね。化学エネルギーではなく、想像力を媒介にしたカスケード反応。こんなことを志希に言おうものなら、

「エネルギーと力は物理学的に次元が違うでしょ。それに、想像だって精神活動で、元をただせば神経細胞……インパルスが……青斑核が……」

 なんて、ちょっと据わった目で言われちゃいそうなものだけど……ふふっ。

 私たちが原作者や映画監督と違うのは、そのインスパイアされた想像力を何かの形に落とし込む外的な要請がないというだけで、一段階目と二段階目で起きた反応としては同じ質のものだと思うの。だからこそ、私は原作を読み直し、スクリーンを通して想像力が何かの形へと落とし込まれる、その境目の部分を掴み取りたいと願ってシアターに足を運んだわ。そうねぇ……さっきは化学の話を引き合いに出したけれど、それはさしずめ、粒子性と波動性をあわせ持つ素子を観測したい物理学者の悲願にも似た思いかもしれないわね。この記事、志希には見せないでね。

 

 原作小説『祈りの幕が下りる時』は、文庫本にして443ページ。東野圭吾といえば、ドラマ『白夜行』の原作などでその名を知っている方もいるでしょうけど……『白夜行』の原作ってとても分厚いのよね。それに比べたら、本作は所謂一般的な、誰もが想像する読み切りの文庫本一冊くらいの分量なの。長さと質に相関はないか、あっても微々たるものだと思うけれど、その一冊には、その道のプロが映画としてカットを撮りたいと唸るようなヒューマンドラマが満載されている、と思うと、東野圭吾という人の、エンターテインメント作家としての力量は素晴らしいものがあると言わざるを得ないでしょう。

 

 本作『祈りの幕が下りる時』は、刑事・加賀恭一郎を主人公とする『新参者』シリーズの最新作を、『半沢直樹』や『下町ロケット』を手掛け、映画としては『私は貝になりたい(2008)』で高い評価を得た福澤克雄が監督して映画化したものよ。『下町ロケット』でも阿部寛がキャスティングされていたし、このコンビは鉄板かしら。

  同じく加賀シリーズの『卒業』、『赤い指』で触れられていた失踪した加賀恭一郎の母親や、『新参者』そして前作『麒麟の翼』で、捜査一課から日本橋署へ転属となった加賀が日本橋という街に強い思い入れを持って暮らしている様子など、シリーズのすべての伏線と謎が回収される『祈りの幕が下りる時』は、ある種の集大成だと思うの。

 

 粗筋をなぞるわね。

 映画は加賀恭一郎(阿部寛)が、家を出た母・田島百合子(伊藤蘭)の遺骨と遺品を引き取ってもらえないかと、彼女が生前務めていたスナック『セブン』のママ・宮本康代(烏丸せつこ)からの連絡を受けて仙台へと向かったところから始まる。百合子も知らなかっただろう、刑事になり立ての自分の住所を宮本がどのように知ったのかと訝しむ加賀に宮本は、百合子と良い仲にあった綿部という男が教えてくれたのだ、と加賀に告げる。加賀は家を出て孤独に死んでいった母親にもそのような相手がいたことを受けとめ、喜び、そしてどうにかして彼と連絡が取れないかと思案する。宮本すら連絡がつかなくなった今、何か手がかりはないかと訊ねると宮本は『日本橋によく行っていた』という話を加賀にするのね。

 舞台が変わって事件が発生。事件は階下の住人から「異臭のする液体が垂れてくる」との通報を受けて、小菅のアパートで40代女性の腐乱死体が発見されたというもの。彼女は滋賀県在住の押谷道子(中島ひろ子)で、この部屋の借主とされる越川睦夫という男は消息が不明であることが判明。警視庁捜査一課に勤める加賀の従弟・松宮(溝端淳平)は、『刑事のカン』で、発生時期・現場がほど近い新小岩の河川敷で起きたホームレス焼死事件と何か関係があるのでは、と引っ掛かりを覚えながら、押谷道子の事件捜査に参加するわ。彼女の足取りを尋ねる滋賀県での訊き込みで、捜査班は道子が中学の同級生で、現在は演出家をやっている浅居博美(松嶋菜々子)の元を訪れるべく上京したことを知る。道子はハウスクリーニングなどを行う仕事の営業をしており、そこで回っていた老人ホームのひとつに収容されている身元不明の女性が、浅居の母でないかと思ったことをきっかけに、有名になった同級生の顔を見に東京へ向かったというの。

 浅居博美の元を訪ねた松宮は、彼女が飾っている写真の一葉に従兄にして刑事の先輩・加賀恭一郎と彼女が映っているものを発見する。話を聞けば加賀が講師を務める警察署主催の剣道教室に、子役を連れて浅居が訪れたことがあったとか。始めは管轄の違いもあり、知り合いの巻き込まれた事件について従弟にアドバイスをする程に留まっていた加賀だけれど、松宮が押収した証拠品の話をすると態度一変。自分も操作に加わらせるように捜査一課に要求する。その証拠品とは、日本橋にある12の橋の名前が月ごとに記入された月捲りカレンダーだったのだけど、加賀には『橋の名前が書き込まれた月捲りカレンダー』に思い当たるものがあって。それが、百合子の部屋から持ち帰った彼女の遺品なのだけど。こうして加賀は彼の人生に根深いこの事件に誘われる様にして捜査に加わることになる――。

 

 映画というのは、小説と違って『意識していたわけではないが登場人物の視界にうつったもの』や『意識してきいたわけではないが登場人物の耳に入ったもの』というものが描ける、ということや、『一度に多量の情報を提供できる』というメリットがあるものだ、としみじみ思ったわね。小説では、どうやっても同時に二人の人物を描くことができない。それに対して映画では、文字に書き起こそうとしたら洩れ落ちてしまうような、緊迫した声にならない嗚咽などが俳優たちの手で表現され得るのよね。『泣き』の演技と不可欠なこの作品でも、浅居博美の14歳時を演じた桜田ひより、20歳時を演じた飯豊まりえ、そして現在を演じる松嶋菜々子三者三様の解釈に基づく泣きが印象的だわ。映像の中に伏線を織り込んでしまった一例としては、序盤に浅居が加賀に「明治座は私『たち』にとっての聖地」と何気なく発言するところや、同じく明治座で演じられている浅居博美が脚本を手がけた『異聞・曽根崎心中』で「愛する者の手によって殺されたい悲願のシーン」が劇中劇として、やはり何気なくカメラに斬り取られているところかしら。ニクい演出よね。

 

 加賀恭一郎を演じている阿部寛は滑舌が決して良い方では無くて、それは捜査一課の上役を演じた落語家・春風亭昇太と比べればもう歴然。『下町ロケット』の阿部寛の滑舌を弄ってサンドウィッチマン伊達みきおさんがモノマネをしているのをたまたまテレビで見たことがあったけれど、加賀が『放射線従事者』というセリフを言うところなどは正直ちょっと無理があったと思うわね。でも反対に、私は綿部と百合子が話をするシーンで、百合子が立ち上がり海に向かって呟くように言葉を継ぐ、というあまりに『芝居臭い』演出を見た時に、舞台やお芝居と違って映画は『とてもアクセスしやすい演劇』ゆえ、私たちの日常生活にもそういった『芝居臭さ』というのがいつしか入り込み、どちらがどちらという峻別がどんどん曖昧になっているんじゃないかしら、ということを閃いてね。だからこそ、綺麗なだけの俳優や、如何にも舞台の演技をする俳優よりも、オーディエンスに身近な印象を抱かせるような演技をする俳優というものを、時代が要求しているんじゃないか、って私は思った。そう思うと、やや聞き取りにくさも否めない阿部寛のモノローグシーンも、それすら織り込み済みの演出に思えてくるのよね。ただ許せないのは、画になるカットに拘り過ぎたのか、立ち話が多すぎる所ね。刑事がペラペラそんなところで捜査機密を喋っちゃダメでしょう?

 もう少し映画自体の話をするわ。ミステリーとしては後半の山場すべてが回想シーンということで、構成としてどうなのかしら、と思うところもあったけれど、俳優の演技が真に迫っていて素晴らしい仕上がりになっていたわ。意地悪く言えば名優に助けられた、とでも言おうかしら。

 松嶋菜々子が魅せた演技は、妖艶、凄絶といった女の凄味を取り出してクリスタライズしたようなまさしく『怪演』といったところだったわ。監督の福澤克雄は役者の表情と陰翳の織り成すシーンを撮るのが好きで、『私は貝になりたい』でも中居正広演じる死刑執行前の死刑囚の鬼気迫る表情を大写しにする、という印象的なカットがあったことを覚えている人がいるかもしれないけれど、松嶋菜々子の震える口輪や瞼の表情筋だとか、見開いた四白眼の横顔を撮ったシーンは名演と名カメラワークのコンビネーション光る妙技で圧巻だった。

 また私がこの映画を見て強く印象付けられたのは、邦画の映像技術というものがどこに出しても恥ずかしくない高いレベルを誇っているのだ、ということね。小日向文世及川光博がそれぞれ演じる別人が、身元不明の焼死体というミス・ディレクションによって繋がることで操作が攪乱されるわけだけれど、そこでキーとなったのが捜査一課似顔絵班による生前のイラストなのよ。映像化するという意味では、ふたりの役者を顔の似た感じのキャスティングにすれば済んでしまう話だけれども、小説ではまったくの別人が繋がったということで、原作を尊重するならそこに似ている必然性が入る余地はない。それを可能にしたのが、年齢を重ねたメイクを施した小日向文世にも、同じようなメイクをした及川光博にも見えてしまうようなこの似顔絵の存在だったわけ。同様に、特殊メイクについても我が国の映画は素晴らしい技術を持っていると感じたわ。腐乱死体に蛆を湧かせるリアリティを求めた割には、推定70代の原発作業員の焼死体にしては歯根が健全過ぎたと思うのだけど、それは重箱の隅かしら……ふふ。

 

 原作小説における何かのヒントとなるような全く別の挿入場面というのを映画脚本化する際にある登場人物のエピソードとして一元化する、という手法はよく採られるもの。それはこの作品でもご多分に漏れないところはあったけれど、総じて上手く仕上がっていた印象を受けたわ。少し勿体ないと思ったのは浅居博美が演劇にどれだけの思い入れがあったか、という描出が切られていたことや、この作品が愛する人間とその間に設けられた子ども、を巡って行くというバックグランドなわけで、原作では加賀と良い雰囲気を醸し出している看護師・金森登紀子(映画で演じたのは田中麗奈)が、従弟の松宮から「加賀の母に纏わる秘密だからこそ、貴女が知って、貴女の手から加賀に渡して欲しい」と彼の秘密を認めた文を受け取る所で終わるのに対して、映画では浅居博美から加賀が直接に受け取り、それを読んでいるシーンでエンドロールに入るという差異があったところかしら。映画単体として完成しているので及第点だとは思うのだけど、原作既読の者としては、「ここで金森さんに出てきてほしい……えっ……出てきてほしかった……」って思いが拭えないところはちょっとあったわね。代わりに、エンドロールではJUJUの情感誘う主題歌が流れる中、『新参者』として日本橋署に配属されてから加賀がこの街で係わった人たち(ドラマ参照)がカメオ出演している様子を見ることができて、その演出はベタだけれど良かったと思うから、どちらの良いところも両立しえないところに勿体なさがあるのよね。

 

 吉川英治賞を受賞した原作小説もその内容の素敵さは折り紙つき。映像版『新参者』シリーズが『刑事コロンボ』になにがしかの影響を受けているとするなら、松本清張が描いたような、経済的困窮を犯罪の背景とする犯罪者、という古式ゆかしき図式が引かれている本作は今西栄太郎の影を匂わせる所が小説にはあると思うわ。どちらか一方でなく、セットで楽しんでほしいと願うところよ。ハードボイルド小説はその当時の世相や、その時々のシチズンが望むヒーロー像を反映する、という話を文香に聞いたことがあるわ。加賀恭一郎がハードボイルドなタフ・ガイかは見る人によって意見が異なると思うけれど、彼のような敏腕だが人情味に溢れ、自身にも翳があるけれど逞しく生きていくヒーロー、というものが、確かに今の私たちが望んだひとつの理想像で、だから加賀恭一郎はこんなにも人々に暖かく迎え入れられたのだと腑に落ちる作品だった。119分の物語、良かったわ。

 

 アイドルに限らず、人間って仮面をかぶってるようなものよね。虚実皮膜……ってわけじゃないけれど、嘘と真ってそもそも花びらの裏表なのかしら?対立するものではなくて、もっとこう、本物の真実がある様に、本物の虚偽もあっていいんじゃないかしら。だからこそ、人はお互いに内側に踏み込みたいと願うのでしょう。貴方も、もっと内側に踏み込んできてくれないと、果実をかじって………ふふ………後戻りは、できないけど。

 

 

(続く)